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東京高等裁判所 平成7年(ラ)448号 決定 1995年6月30日

抗告人 楊克清

主文

一  原審判を取り消す。

二  抗告人が次のとおり就籍することを許可する。

本籍    東京都千代田区○町×丁目×番地

氏名    本間清恵

生年月日  昭和20年1月28日

父母の氏名 不詳

性別    女

理由

一  本件抗告の趣旨は、主文同旨の裁判を求めるというのであり、その理由とするところは、要するに、原審判は、抗告人が日本国籍を有することの証明がないとして本件就籍許可の申立を却下したが、抗告人が日本国籍を有することは、本件資料によって認定することが可能であるから、右申立を許可すべきであるというのである。

二  そこで、原審記録に加え、抗告人が当審において提出した資料を併せて検討すると、次の事実を認めることができる。

1  抗告人は、乳幼児期に中国黒竜江省虎林県内に住む中国人の郭大光、郭建秀夫婦のもとで、桂清との名前で養育されていたが、抗告人が3歳位になった1947年(昭和22年)1月12日、同県内に住む中国人の楊立功、楊玉清夫婦に引き取られ、以後同人らのもとで養育された。

2  抗告人が右のとおり郭夫婦から楊夫婦に引き取られた際、引取りに至る事情や条件等を赤色の布に記載した念書様の文書(以下「念書」という。)が作成されて、楊夫婦のもとに保管されていたが、右念書に立会人として記載されている趙子智作成名義の1990年(平成2年)11月14日付の「証言」と題する文書が当審において提出された。

黒竜江省虎林県公安局外国人管理、出入境管理処から抗告人宛に送付されたものと認められる右文書には、趙夫婦は郭夫婦と隣人どうしで親交があったところ、○○○市○○区に住んでいた1945年(昭和20年)8月ころ、趙子智は、郭夫婦から相談を受けて、同人らが日本人女性から女児を引き取る場に同席したこと、その女性は、黒竜江省密山県から避難してきたという日本人女性で、生後6、7か月の女児が体調を崩したため、これ以上同行することが困難であるとして、同児を引き取ってくれるよう懇請してきたというのであること、郭夫婦は趙子智の勧めを容れて女児を引き取ることにし、桂清と名付けて養育したこと、その後、郭夫婦は阿片に溺れて桂清の養育が困難となったため、趙夫婦の口利きにより、引越先の虎林県において、抗告人は、趙子智と親交のあった楊立功夫婦に引き取られることになり、その際、前記のとおり念書が作成されるに至ったこと、楊立功は女児が日本人の子であることに強い抵抗があったため、関係者は女児の身上を一切口外しないことを了解し合い、念書にも女児が日本人の子であることは記載しなかったこと、こうして、抗告人はそれ以後楊夫婦に引き取られて、実子同然に養育されたこと、概要右のとおりの記述がある。

3  右念書に保証人として記載のある呂夫翔は、楊立功の隣人で同人と親交があったが、呂夫翔の妻呂正英は、原審の書面による照会及び前記念書と同様に前記公安局外国人管理、出入境管理処から抗告人に送付されたものと認められる呂正英作成名義の1990年9月26日付「証言」と題する文書中において、亡夫呂夫翔から、楊夫婦が引き取った女児は、郭夫婦が日本人から引き取った子であるが、同女が日本人であることを他に口外してはならないと言われていた旨を述べている。

4  場立功の三男の場○○は、当審において提出された同人の供述録取書において、近隣から抗告人が日本人であるとの風評を耳にし、これを母親の楊玉清に聞いたところ、同女から、抗告人は終戦の混乱時に避難途中の日本人が郭夫婦に託した子であると教えられた旨の供述をしている。

5  そして、抗告人は、その成育過程において、養父母の楊夫婦から、自分が日本人であるとの話を聞かされたことはなかったが、近隣では抗告人が日本人であるとの風評が流れ、子供のころ「小日本人」と呼ばれたこともある。

6  抗告人は、養父母の死亡前後ころから、日本への帰国を希望するようになり、1992年9月28日付で黒竜江省公安庁外国人管理、出入境管理処発行の、また同年4月21日付で同省虎林県公安局出入境管理、外国人管理課発行の、いずれも抗告人が日本人孤児であると認定する旨の証明書の発行を受けた。また、わが国の厚生省においても、抗告人を中国残留孤児として処遇している。

三  前項に認定した諸事情を総合勘案してみれば、抗告人は、日本の敗戦前後の混乱を極めた状況下にあった中国旧満洲地区において、避難途中の日本人の母親から郭夫婦に託された日本人子女と認めるのが相当というべきである。

前記念書には、抗告人が日本人の子であることを窺わせる記載はないが、養父母らが、抗告人が日本人であることを極力隠そうとしたという前述の経緯に照らせば(当時、養父母らがそのような腐心をしたことは、戦争直後という当時の時代背景に照らし、容易に首肯し得るところである。)、右の事情が前記認定の障害となるものでないことは当然である。

四  抗告人の父は、本件全資料によってもこれを知ることができないが、旧国籍法(明治32年法律第66号)3条によれば、父が知れない場合または国籍を有しない場合に母が日本人であれば子は日本人とされるのであり、本件においては前記のとおり、少なくとも抗告人の母は日本人であると認めることができるから、抗告人は、出生によって日本国籍を取得したものというべきである。

そして、抗告人は、中華人民共和国の国籍を有するものと認められるが、抗告人がこれを自己の志望に基づいて取得したこと、その他の日本国籍の喪失事由があるとは認められず、また、抗告人の身元は不明であって本籍を有しない者というべきであるから、抗告人の本件就籍の申立は、これを許可すべきものといわなければならない。

なお、就籍事項のうち、本籍及び氏名は抗告人申出のとおりとして差し支えがなく、その余の事項は、前記認定の事実関係に照らすと、主文第二項記載のとおりとするのが相当である。五そうすると、抗告人の本件就籍許可の申立を却下した原審判は相当でなく、本件抗告は理由があるから、特別家事審判規則1条、家事審判規則19条2項により原審判を取り消し、就籍事項について前記のとおり定めたうえ、抗告人に就籍を許可することとして、主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官 町田顯 裁判官 村上敬一 中村直文)

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